OAプラザとMUG

マイツールの普及のために力を入れたのがOAプラザとMUGでしたので、その辺の事も少し紹介しましょうか。

私はソフトの開発推進が主であり、プラザもMUGもそれぞれ担当がいましたので知らないところもあるのですが、マイツールに関しては皆が結構お互い協力しながらやってたので、ある程度は知ってますから。

OAプラザ

OAプラザが最初に作られたのが上野でした。
プラザの役割の中心はマイツールの教育と問い合わせに対するサポートでしたので、上野で実際に色々やってみながら、全国にプラザを設置した場合のマニュアル作りをしていったのです。

スクール

スクールは、先生が前の教壇に立って教えるというのではだめで、先生が生徒の操作画面を常に見られて確認できるようにしなくてはならない。 そのためにマシンを壁際に置き、後ろから先生が見られるような配置にさせる。
自分で実際操作してみないと覚えられない、そのために生徒の数も最高でもマシン1台について2名まで、それ以上になると触れない人が出来てしまう。 などを決めてプラザのモデルを作ったわけです。

テキスト作り

当然教える内容も決めていったわけで、テキスト作りもやったわけです。 この時作られたテキストがずっと後まで各地で使われました。 モデルクラブのデータなどもこの時作ったのですが、これなんかずっと後になってまでフェアなどでも使われていましたね。

インストの女性達

教えるインストの教育などもやったわけで、私なども結構引っ張り出されて先生した事あります。 この時教育受けた女性たちは本当に熱心で、よくやってくれましたね。 彼女たちが各地にも戻って、皆さんの教育やサポートをしたわけです。 そのころの人は殆どもう専業主婦になってるだろうけど、彼女たちの意志を受け継いだ女性たちが、今でも各地でがんばってくれているからマイツールがあるといえるでしょうね。

サポート経験からの反映

マイツールはパソコン初めてという人が殆どだったので、プラザへの質問なども我々が思いもつかないようなものもあって、随分参考になりました。

フロッピーのコピーを取って送って下さいと言ったら、複写機でフロッピーをコピーして用紙を送ってきたとか、フロッピーを袋から取り出して入れて下さいと言ったら、5インチフロッピーのペラペラの円盤を取り出してマシンにセットしたとか、フロッピーを強力マグネットで黒板に止めておいたとか、色々あります。

「昨日ページに書き込んだデータが、朝続きをやろうとするとなくなっている。ちゃんとW命令で書いているのに。」 とかいう問い合わせがあって、「そんなはずないので、どうやったか教えて下さい。」 と色々聞いてみたら、毎朝INI命令を行っていたとかね。 「最初にフロッピーを使うときはINIしてくれ」 とマニュアルに書いてたけど、毎回やる人がいるなんて思いもしなかった、もっと文章考えようというように、それらが次に反映されていったわけです。

スクールの教育

スクールで教えるときは必ず「リードのRを入力してください」というようにしなさい、RとかWとかだけ言わないように、なども教育マニュアルに書かれました。

スクールの教育と言えば、計算を教えていて先生が「Cの2プラスCの3イコールC4と入力して下さい。」 と言ったら ”Cの2+Cの3=C4”と「の」を入れて入力した人がいるんですよ。

そしたらこれが、それでもちゃんと計算されて、「さすがマイツールは凄い。」 なんて話になったりしましてね。 話を聞いて私も試してみたら、ちゃんと動くのですよ。 それが=の右側をCの4と入力するとダメでね。 開発者が見過ごしていてバグだったわけだけど、それがマイツールの良さに思われちゃったのです。 他に影響を与えるので、そのバグは直させましたけどね。まあ、ソフトにはこんなこともあるのです。

OAプラザの推移

前にも書いたと思うけど、OAプラザ設置に関しては各種援助を行ったので、全国に続々とプラザが出来ていきました。 会社の手帳の後ろに全国のプラザの住所が書かれているのだけど、それを見ると86年の手帳から29個所のプラザが載っています。 その後87年には63個所、88年92個所と増えていき、93年に223個所載っています。 その後だんだん減っていき、今年2000年の手帳では167個所ですね。

マイツール事業が伸びていった時にはプラザもどんどん増えていってますね。 実際はプラザ数が一番多かった92年頃には既に、事業に翳りがみえてきていたのですけどね。 この辺の話は後からするつもりだけど、マイツールV2を出した当時はプラザ500計画だなんていって、全国にプラザを500設置しようと、我々みんな張り切っていたのです。

MUG

さて次はMUGに関して少し。

マイツールソフト、OAプラザ、MUGが事業の3本柱ということで、ユーザー会は絶対必要と言うのが、長谷川さん荒川さんが当初からリコーに強く提案していた事なのですが、ご存知のようにリコーはそれまでどちらかというと、常に販売店に対してのみ色々やっていましたので、直接ユーザーに対して何かやると言うのは経験がなく、どうやっていいかわからないというのが実状でした。

PUCを参考にして発足

そこで長谷川さんがPIPSで作ったPUC(ピップス・ユーザース・クラブ)の例を聞きながら、ほとんど我々は言われるままに動いていた、というような感じでした。

事務局

「リコーが前面に出ると良くない、黒子に徹すべきだ,ユーザーが圧力団体になってしまうことも考えられる、そういう時のために私がやってればいい、」 というのでECOSでやるという案もあったのだけど、長谷川さんがECOSを離れて長谷川総合研究所というのをつくり、そこでMUGの事務局をやるということになったわけです。
この時から長谷川、荒川二人がちょっとギクシャクした関係になったのですけどね。

名前、会長、事務局長決定

MUGと言う名前はすぐに決まったような気がしますが、後から医学関係の会で同じ名前のところがあって、(メディカルのMでしたね。)クレームがきたりしました。

それと会長は誰にしようかというので、リコーがやるのだからある程度知名度のある人じゃないと格好悪いというので、リコーと関係が深かった牛尾さんにお願いしたわけです。 長谷川さんがなりたかったようなところもあったのですけど、結局は最高顧問という形になりました。
そして長谷川さんがPUCの時に関係していたHさんを連れてきて、事務局長になってもらったわけです。

MUGの活動に関しては、ほとんど長谷川さんの言うとおりに行われたと言っていいでしょう。 なにしろリコーに経験がなかったものですから。
リコーからの予算もたっぷりとって、それこそ思うままにやれたのだから最高だったでしょうね。 設立総会の時などもラジオ放送している関係で知りあったバンド呼んだりしましたからね。

でも、銀座のMUG事務局に入るには、個人に発行された磁気カードを読ませて鍵を開けないと入れないようにしたりしたので、行くのがなんとなく面倒になってしまい疎遠になりました。 それとHさんが技術畑の人だったのだけど、長谷川さんの話が彼の影響を受けて、通信とか技術系の話が中心になり、面白くなくなってきたというのもあります。
マーケティング関連の話は為になる事が多かったのだけれど、通信とか技術的な話に関しては特に新しい事もなかったし、得られる事はあまりなかったというのも事実ですね。あくまでも私にとってはですけど。

MUGNET

少し後になって、Hさんが通信ソフトであるマイアクセス作って、MUGNETというメンバーのためのシステム開設したけど、あまり利用されませんでしたね。 システムがおそまつだったし、マイアクセスも決して使いやすいソフトと言えるようなものでなかったですからね。

MUGに関して話し出すと問題が一杯出てきちゃうので、この辺でやめておこう。 ただリコーは現在CSで高い評価をうけていますが、MUGがこれの先鞭をつけたというのは、社内誰もが認めるところです。 マイツールがリコーに、ユーザーに目を向けるという新しい文化をつくったのです。
MUGニュース創刊号

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